長享2年(1488年)、富樫一族が入村の際、男子ばかりで家事・炊事に困り、子女を下里からさらい使っていましたが其の中に「お阿沙」という名の若い娘が居ました。親と離れて草深い山中に連れ込まれ、朝から晩まで侍たちに酷使され、世をはかなんで、山上の池へ身を投げて死んでしまいました。身投げの際、足元に小さな一匹の蛇がいたので、この蛇に向かって
「可愛い蛇よ、私の願いを聞き届けてくれ。私は死にあたって自分の心をおまえさんに授ける故、お前は速やかにこの池の主として、大蛇となって富樫の侍たちを苦しめておくれ。願いが聞き入れられたら、神に願っておまえさんを天地の龍王にしてあげましょう。」と頼み、蛇を抱いて池へ飛び込んだといわれています。
それから幾日か経ち、此の蛇は大蛇となって池から昇り、村へ出て侍たちを驚かし幾人かを呑みました。夏には平沢川まで下りて水を呑むところを見た侍たちは、大蛇を退治しようと立ち向かいましたが、どれも叶わなかったと伝えられます。この大蛇の住みかとして現在も、阿沙蛇羅・下蛇羅・中蛇羅・上蛇羅の地名が残り、山上には阿沙蛇羅ヶ池も現存します。
日良澤城址跡地は、平町の耕作地の東側、かつての棚田(現在は段々畑)を見下ろせる場所の奥にあります。現在は荒れ地となっており、広さから見て館の跡地と推定されます。日良澤城址跡地のすぐ隣に、富樫政親の重臣で鶴来城主の槻橋近江守重能の塚があったと言い伝えられている田が広がり、地元の人々の間では「塚田」と呼ばれています。日良澤城址跡地の後背には山が急斜面となって囲むようにせまり、富樫家の遺臣が武器や食料を貯蔵した「岩倉」と呼ばれる洞窟があるといいます。
平町の八幡神社は、平町の集落の中心に位置し、八幡神の主祭神である応神天皇を祭っています。創建は、江戸時代の正徳2年(1712年)と推定され(石川県神社庁)明治5年11月村社に列格されました。はじめてこの地へ入植した人々は小石を拾い、神社の境内の小高い丘に立て、神の化身として祀り拝んでいました。のちに富樫政親の正妻が、子の武運長久と村人の繁栄を希い、富樫家は源氏の流れを汲む家系の関係から、源氏の頭領で鎮守将軍たる八幡太郎義家を守り本尊として社を建て、昔からの神と合祀したといいます。現在は最古の神と八幡太郎義家と応神天皇の三体が合祀されています。珍しい太陽と月の刻印がされた石の祠と、樹齢700年を超える巨木がこの集落の奥深さを物語ります。
大蛇を退治した人として有名な豪傑百姓は、平村の納屋弥次郎という者でした。ある日、国見川のほとりに小さな田んぼを耕し畦で一服していると、川の渕に見慣れぬ一匹の蛇が水浴していたので、弥次郎は悪戯心で小石を拾って蛇に投げつけました。すると蛇はたちまち大蛇となって弥次郎を一呑みにせんと鎌首をあげて向かってきたといいます。
驚いた弥次郎は、鎌一丁を持って村の方へ逃げたのですが蛇の追跡が早く、とても逃れられないと覚悟し、持っていた鎌で決戦を挑みました。大蛇は弥次郎の渾身の一振りの鎌に首を叩き付けられ、その場に倒れ、息絶えました。弥次郎は切り獲った蛇の首を下げ、村へ戻り人に話しました。村人は驚き現場へ駆けつけたところ、胴回り一尺余り(約30.3cm)長さ二十尺(約6m)の蛇が死んでいたといいます。村では、この阿沙蛇羅池の主の霊を葬ることにし、川端に大石を立て「頭甲(ズコウの)下」として霊を弔いました。
現在もこの所を「頭甲の下」といっているし、田も残っています。大蛇は明治末期や大正5年にも現れたといいます。昭和33年にも村の若い者(南実氏)が晩方町から帰り途、平沢辻の上で往来を遮断しているのを見ているので、いまもどこかに身を隠して棲んでいるのかもしれません。
平町から東南に岩石の壁があります。政親の妻巴が人目を避けて、富樫家の再起を祈ったと言われ、仙女の壁と呼ばれています。夏季の頃、日照り続きで水がなくなった時、この壁にさわると必ず雨が降るので、巴の亡霊だと恐れられています。しかしもう一説によると富樫家の重臣槻橋重能の病死後、その妻がこの壁穴に隠れ読経をし、瀧にうたれて主家の再興を祈念していたとされます。しかし何年か後に老衰死し、この念力のためこの壁に湧き出る水に鍬などで触ると必ず豪雨となり川下が氾濫するといいます。
平町の南2km南にある山の西側斜面には断崖と三畳ほどの広さの洞窟があり、武術家とも修験者とも見られる人が隠れ住み、地元の人々から「天狗」と呼ばれて恐れられたという伝説があります。その断崖は、地元の人々が「天狗」と呼ばれる人からお椀を借りたことから「椀壁」と呼びました。言い伝えでは、借りたお椀はいつも新品で綺麗でしたが、お椀を盗んだ家は呪いがかかって家が断絶したといいます。また天狗が住んでいた椀壁の洞窟には、富樫家の財宝があると噂されていましたが、地元の人々は呪いを恐れて洞窟に近づけなかったといいます。
郷土史家の小坂清太郎氏自身も昭和10年に椀壁の裾野で普通の人より2倍も鼻が高く100歳近い不思議な老人と遭遇したといいます。小坂氏曰く、武術修行家がいたのは確かで、現在の岩窟や石彫の痕跡が何カ所か残っており、天狗とは武家の末孫で世を離れた仙人だと想像するといいます。
最高の景勝地で自然公園の形体をなし、奥地には赤倉の池があります。約6000年以前に爆発を起こした火山噴火口であり大正年間までは地下噴水により、池ができ「ジュンサイ」で水面が覆われていました。源平倶利伽羅合戦の際、国見村の人に発見され、その際、赤い馬の鞍が浮いていたため「赤鞍の池」と名付けたそうです。なおこの池へものを投げ込むと台風が起こり、大雨になるとされ郷土史家の小坂氏が若い昭和初期頃、水田の水が不足すると定まって村人は酒樽を背負ってこの池の龍神に水乞いに行ったとのことです。お神酒を池へ投げ込みしばらくすると、晴れていたのがにわかに曇り、大雨になったことを覚えていると記されています。
今は林道が通じ、池の周囲の原生林は伐採され、明るくなったため、水位もさがり昔の姿も雨の効果もなくなったとか。龍神様は人目のつかない、どこかに移ってしまったのかもしれません。
参考
『わが町の歴史』『古里の変遷』(小坂清太郎著)
『加能史料 戦国Ⅲ』(石川県 2003)
『国史大辞典 第10巻(と-にそ)』(吉川弘文館 1989)